雇われない女性たちの生き方(起業という働き方)

2017年2月7日火曜日

Hさん塾経営インタビュー(雇用されない女性たちの生き方.34)



7人目インタビュー

(7)  Hさん(塾経営・61歳・既婚・子供1人・独立30)

 高校を卒業後、イギリスへ2年間留学。
その後、結婚し、あるとき英語が出来るのならば教えればと言われ、始めたのがきっかけだ。

自宅で少人数で続けていたころ小学館教室で塾を始めることになる。
資料やノウハウは会社から得ることが出来たが収入は時間給でみなされていたので、低いものであった。
 しかし彼女はこのことを気にしていないので、収益を求めしているのではないことが分かる。その後、夫の転勤で地方に住むことにもなるが、その地、その地で自宅で塾は続けていく。
 
その地方で中学生を教えたときに、学校から近かったこともあり、宿題を中心に見てあげていたことがあった。すると、その子供たちの能力が上がっていくのが分かり、以後、そのやり方をやり続けた。


 26歳で結婚し30歳になったころ不妊治療を始め、32歳で子供が生まれた。
子供が生まれ自宅で生徒を相手に続けたが、子育てとの両立は大変だった。
数か月仕事を続けたが、子供が髄膜炎になり仕事は全部辞めることとした。
このころは小学館の塾と自分で教えるマンツーマン指導の両軸で運営していた。



 その後、都内校外に家を立て、実家の母に手伝いにきてもらい塾を再会。
その頃は自宅では無く。レンタル教室を借りるようになる。中学生も口コミで来るようになり出した矢先、主人の認知症の母を向かい入れることとなり、介護と仕事で大変な時期も過ごした。



 介護が一段落したころ、レンタル教室が定期的に借りられなくなり、駅の近くで教室用に事務所を賃貸したのが10年ほど前である。その頃から塾の形態が変わりだした。グループワークだと数人休むと翌週も復習をせざる得なくなり、効率が悪くなっていった。そのため、小学館教室は辞め、学生を講師として個別指導だけにするようになって行った。



 専属教室を持ったことで、学生バイトを雇い、入塾する層が変化してきた。近くのT学園の進学生が主になり自然に公立生徒がいなくなっていった。23年経つと近くにNOVAが出来た。生徒を取られると不安だったが、誰も辞めなかった。なぜだろう?と考えた答えは差別化をしていたのだと分かった。T学園の為の独自の教育方法のプログラムを作っていたのであった。



 ある時、講師をしたいと東大出身の主婦Bさんが面談に来た。「働くところがない」と言う。今は誰でも出来る単純作業をしているらしい。がむしゃらに何でもやる自分と、言われたことをきちんとする主婦Bさんと違うのだと、驚いたことを覚えている。
正確に仕事はする主婦Bさんにやりがいを持ってもらうよう人材育成をしてもらいたいと思ったが、うまく行かず、簡単な経理をしてもらおうかと考え悩んでいた。


 いつも変化のある時、選択を迫られる時には相談できる師であるA氏がいた。この師のおかげでいつも危機や悩みを乗り越えることが出来た。A氏とは、とあるセミナーで同期という出会いであった。世に名前が通った上場企業の社長さんだ。
 レンタル教室が常時借りることが困難になった時には「何かがあった(困った)時は、決断をするチャンスだ。」とアドバイスをもらい、事務所を借りる決断をした。今回も主婦Bさんの扱いを相談したら「人事とお金は預けてはいけない」と言われ、低学年の指導全般だけをお願いした。



 このことを機に「女性でもったいない人」つまり能力はあるが、うまく活かされていない人を育てて行きたいと考えている。


 ライフワークバランは子供が高校生までは家庭(子育て)に比重が行っていたかな。今は主人がいるからそっちに気を使うから自分80%の主人20%かな。

5段階の欲求では承認あたりかな。今年は売上も去年より30UPしたけど、主人がいるから生活ができているのは、かわない。

私はこれからどこへ行くのかな。老いた今でも思う。と笑って言ってくれた。

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